写真は、7月に行った所属している劇団すがおの桑名空襲の朗読劇のカーテンコールの風景であるが、私が構成を担当した。現在、代表の加藤は、新聞で募集し、72年前の桑名空襲の体験者を探し、聞き書き(再調査)を始めている。来年も、桑名空襲関係の芝居を続けるためにである。
もうすぐ、生き証人がこの世からいなくなるのである。
劇団として毎年行われる戦没者の慰霊式にも出席。ただ、桑名空襲で約700名の市民が犠牲になったことを後世に伝えたいだけである。そんなことに思想もくそもない。
私が、母から祖父の戦死の話を聞いたのは、多分、中学生の時であった。祖父は駆逐艦に乗っており魚雷を受けて、結果、戦死とのことであった。父は神奈川県の横須賀生まれ、母は東京都の品川区大森の生まれである。疎開で、大元の山梨に帰ってきたのだ。
母は中卒である。母親(私の祖母)も早くに病気で亡くし、家は貧しく兄弟が多かったから、進学できず、洋裁を習ったのである。母は賢い人だが、苦労をしたのだと思う。
その祖父の戦死の話を聞いた時に、まだ、中学生だった私には一つの疑問が芽生えた。
「中国、韓国はあれだけ日本のことを憎むのに、なぜ、私たちはアメリカを憎んでいないのか?私は、祖父、つまり母の父を殺されたのであるが・・・・」
それから、私の現代、近代史への興味。あの戦争のこと。戦時下の暮らし、思想統制、軍国主義、天皇制、占領政策などに興味を覚えた。
その流れもあり、高校から民青(日本民主青年同盟)で政治活動、平和活動を行ったのであるが、かなり早熟だった私は、共産党の代案なき反対や批判に、うんざりして行ったのである。高校3年の時に、中東戦争の件で言い合いになり、民青から脱退した。
※私が民青に約2年間いたことを書くのはなかなか勇気がいることだが。当時は視野が狭く、私の立ち位置が見えていなかった。大学時代からは全く関係ない。(切りとって編集はしないでほしい)
保守とは?左派、右派とは?自民党の改憲の信条とは?自虐史観とは?
大学時代はエコロジカルなライフスタイルを追求する傍ら、政治哲学やシステムに関して常に考えていた。そうしたなか、親友がミニコミ誌を立ち上げ、県内の右翼団体の取材に行った。時は昭和天皇が崩御され、平成の世に変わる時であった。三重県では芦浜原発の建設が予定され、南島町は賛成派、反対派で大混乱していた。私も反原発運動に参画していたが、世の中の人の目はキチガイを見るような目であった。併行して、チェルノブイリの事故であった。
なぜ、私はアメリカを憎まないのか?安保とは?あの時代に若者は何と戦っていたのか?
私は、結局、右だ左だなんていう話には全く興味はなく、
私がここにいる理由を探したかっただけだ。
だから、大学4年の時に1年間休学をして、半年アルバイトをして、半年、東アフリカを放浪した。人類の起源であるタンザニアのあるオルドバイ 峡谷を見たかっただけだ。かっこよく言えば、個人的なグレートジャーニーである。
人類はどこへ向かうのか?文明やシステムは人を含む命を持続可能に維持できるのか?
亡くなられたが、亀山の「月の庭」の、岡田昌さん(私が大学生の頃からいろんな活動を共にさせて頂いた)と、ガイア仮説の提唱者のラブロックの講演なども聞きに行った。自然農法や有機農法の農場の見学へも行き、自然エネルギーに関しても学んだ。
欧米の教育の多様化に驚きフリースクールやシュタイナー教育の研修会にも参加した。
感覚的に敗戦後、日本が何かとてつもないものを失ったことを感じた。それが戦後である。
戦前の教育は、実に自由で、文化活動も盛んであり、真のエリートが生まれた。
明治からスタートした近代国家日本は、飛躍的に西洋に追いついて行くこととなる。
いよいよ、グローバル経済、ITの劇的な経済システムが変化し、日本も今までの金の卵方式の経済では通用しなくなった。それ向けの教育は、現実に合わず、エリート層のあり方も歪んできたように思える。社会全体が硬化し、子育ての寛容的環境が失われ、その環境で育った若い方々の中には、子育ての方法がわからず、孤立してしまう方も見える。若い方が政治に参画しないから、高齢者福祉が政策の主体のようになり、お金が担い手育成に回らない。
例え、地方、地域であっても、グローバルな視野で政策を組み立てねばならなくなったのである。特に自治体間競争。日本の近代、現代史で初めて、地方が国から強いられた平成合併による歪は、これからどんどん拡大していくのである。
本質を捉え、まず、何を優先順位としてやるか?
自分が結婚し、こどもが育ち、50歳を超えると、自然に「次世代のこと」についても真剣に考えたくなるものだ。私は、自分の人生のその先を今は考えている。
今後、地方の政治家はかなりタフでないとやれない。
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