あなたの子どもとして。

今年を振り返る中、自分の中で大きかったことは、父が倒れ、寝たきりになったこと。


昨年の選挙後、「おまえへの投票数が少なかったのは、どうなのか?活動をしっかりしたのか?」と問われ、少し、言い合いになったのが、元気だった父との最後の電話となった。

まあ、父なりの心配であったのだろう。


寝たきりになっても、意識があり、こちらの声が聴こえるのが、有難い。

また、言葉は上手に出ないが、反応はある。


今年、56歳になった。

1期目の初め、父に慣れない議員生活の中、

「本当に、毎日、気疲れしてしまい、参っている」と愚痴を言った。

仕事で30年近く、移住して11年。

肉親や親戚も、気心が知れる同級生がいない私は、時々、気弱に、不安になった。

無論、友人や知人はたくさんいる。

しかし、やはり、地縁・血縁がある同僚議員の話などを聴くと、圧倒的に土地感と人脈が乏しい自分の立ち位置が、時々、ものすごく不安になる。

いや、私よりもアウェイな方々もいっぱいいるのだが。


父は「まだ50代だろう。まだまだ、どんなことでもやれるだろう」。


確かに、あなたは、ちょうど、今の僕の年齢の時に、文部省の海外派遣の試験を受けて、突然、ブラジルへ赴任し、マナオスの日本人学校の校長として、アマゾンをくまなく探検したりしていた。そして、校舎の新設という大事業もやってのけた。


私は、両親が日本にいないのを幸いに、大学を勝手に休学し、アフリカへ飛んだ。

「アフリカまで来たんなら、ブラジルへよればよかったのに」と母。

兄も仕事でしばらくアメリカにいた。


私たち家族の環境や関係性、考え方は、あの時に、一気に変化した。

ダイナミックでなかなかおもしろかったし、

個人の意思を尊重する個人主義的な家族となった。


父へ。

あんたの息子だから、何とかするわ。

三重に行くことも、私が決め、三重に残ることも、私が決めた。

不安定なライターになることも、また、いなべ市で議員に立候補することも

私が決めた。


中古の一戸建てを購入したときに、1回だけ自宅に父母が来た。

「もう三重県が、おまえのフィールドだな。そこで頑張れ。」

それが、父母が三重県に来た最後であった。

多分、母ももうこちらには来ないだろう。


いなべ市にも、他市町、他府県から嫁がれてきた女性や、移住されてきた方がたくさんいる。

考えてみりゃ、狭い島国の日本。

グローバルなビジネス展開をしている大手企業もあり、他市町、他府県から働きにきている方々もたくさんいる。

また、にほんごひろばで会った、外国人労働者もたくさんいる。

そうした中、内や外なんていう考えも、実態に反している。

要は、ここが好きか、ここで死ぬまで暮らしていくかである。

そして、

お父さん、今は大好きで、大切な人たちが、私の周りにはたくさんいます。

私は、あなたが子どもたちのために働いたように、いなべ市のために、尽くします。


いなべ市議会議員 篠原史紀 しのはらふみのり WEB

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