ふるさといなべ市の語り部の会の総会(2023.3.10)

3月9日、一般質問が午前中に終わったので、午後から、ふるさといなべ市の語り部の会の総会に出席。

語り部の会は、昨年、入会させていただいた。

郷土史関係の書籍をいくつか編集管理した経験の中、語り部の会の代表の伊藤会長には、かなり前に、書籍の監修をやっていただいた。また、いなべ寄席のメンバーさん方々が、同会の役員もされている。

記念公演として、多度町剤在住の郷土史家の水谷さんが来られ、長島一向一揆の講演が行われた。

所属する劇団すがおでは、長島一向一揆の演劇が、コロナの影響で2回延期となり、一向一揆から480年となる来年度に公演をする予定となっている。

今年1月に封切りとなった東映70周年を記念映画、織田信長と濃姫を主人公にした映画『レジェンド&バタフライ』が話題となったが、天下布武を掲げた織田信長を苦しめた一向宗の反乱。

一向一揆は、長島だけでなく、三河や加賀でも起こった。一向一揆は、室町時代から始まっており、織田信長の時には、第三の時代の波と言われている。

あるサイトから、織田信長時代に起こった一向一揆の流れをいかに転載する。


第3段階は、16世紀の織田信長との対決、一揆の終結期である。すでに1562年(永禄5)に信長の同盟者となった徳川家康は、1563年に三河一揆と戦っている。一揆は、家康による地方大坊主の寺内不入権侵害に抵抗して蜂起し、家臣団も二分して翌年2月まで激しい戦闘を続けたが、門徒の武士と農民の離間に成功した家康に屈服した。1568年に足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛(じょうらく)した信長を「法敵」として、本願寺顕如(けんにょ)は1570年(元亀1)に全国門徒に総決起を指令した。いわゆる石山戦争の開始である。本願寺は武田、朝倉、浅井、六角(ろっかく)、ついで毛利、上杉、荒木ら反信長派大名と結ぶとともに、畿内、東海、北陸での一揆の蜂起によって信長包囲網を形成した。信長は本願寺とは名目的講和を繰り返す一方で、各地一揆の各個撃破を進めた。近江一揆は六角、浅井氏と連携して各地で信長軍と戦ったが、両氏の滅亡とともに瓦解(がかい)した。長島願証寺(がんしょうじ)を中心とした尾張(おわり)、美濃(みの)、伊勢(いせ)の一揆は、信長の弟信興(のぶおき)を攻めて自殺させるなど強大であったが、三度にわたる信長の攻撃で1574年(天正2)壊滅した。越前では信長家臣の勢力争いに乗じて一揆が起こり、加賀一揆の来援を受けて1572年(元亀3)1月に信長家臣を倒して一国支配を実現した。しかし1575年(天正3)8月に総攻撃を受けて壊滅し、加賀南半も信長軍に占領された。紀伊(きい)の雑賀(さいか)五郷の一揆は紀州惣国一揆(そうこくいっき)の一翼で、1577年にいったん信長に屈服したが、反信長派の2郷は再起して多量の鉄砲と水軍で本願寺を支えた。一方、1576年より籠城(ろうじょう)に追い込まれた本願寺は、畿内門徒と毛利氏の援助でしばしば信長軍を破ったが、各地一揆の敗北と毛利の後退で戦力は低下し、ついに1580年3月に講和を結んだ。顕如は紀州鷺森(さぎのもり)(和歌山市)に退去、講和に反対した教如(きょうにょ)も8月には退出し、石山戦争の終結とともに一向一揆は終結した。(https://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86-31456より転載)


長島一向一揆に関しては、三度の大きな戦いがあった。

第一次長島攻め 

翌1571年、長島城を落とすべく信長自身も5万の兵を率いて出陣したが、総攻撃を仕掛ける直前に一揆勢が攻撃して来て、敗走せざるを得なかった。 柴田勝家が負傷し、氏家卜全と、その家臣数名が討ち死にした。 この戦いで、一向宗は数で押し切る一揆とは違い、戦略的に優れた“戦”を展開しており、信長は長島に対しての侵攻作戦内容の再考を余儀なくされた。

第二次長島攻め 

1573年9月、信長は数万の兵を率いて再度長島攻撃を行った。 一揆勢の篭る西別所城・坂井城・近藤城を陥落させ、降服させる。 信長は北伊勢の平定には成功するが、長島への直接攻撃は見送らざるを得なかった。 帰路に着く信長であったが、またしても一揆勢のゲリラ部隊に襲撃され、敗走の形となってしまう。

第三次長島攻め 

1574年7月13日、信長は嫡男・信忠と共に8万人の大軍を率いて岐阜城を出発し、三度目の長島攻撃を開始した。 木曽川、長良川、揖斐川に囲まれた長島城を落とす為、滝川一益と九鬼嘉隆の水軍も動員して完全に封鎖。 信長は一揆衆を殲滅する為、飢餓に耐え切れず城を脱出した約1000人の門徒、降伏を申し出て長島から退去しようとした者達を男女の区別なく攻撃、殺害してしまう。 最後まで落ちなかった中江城と屋長島城では、約2万人を焼き殺したという。


この三度の戦いをどのような演劇にまとめたか。

ぜひ、来年度の公演を楽しみにしていただきたい。

いなべ市議会議員 篠原史紀 しのはらふみのり WEB

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