1月に入塾した政経塾の如月例会の会場は、知恩院の宿泊できる会館。
もう何年ぶりかは忘れたが、久しぶりに観る、荘厳な浄土宗の総本山である。
以下、ウィキ掲載の知恩院の概要。
知恩院(ちおんいん)は、京都市東山区林下町にある浄土宗の総本山の寺院。山号は華頂山(かちょうざん)。本尊は法然上人像(御影堂)および阿弥陀如来像(阿弥陀堂)。開山は法然である。詳名は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)。
浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは江戸時代以降である。徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。なお他流で門跡に当たる当主・住職を、知恩院では浄土門主(もんす)と呼ぶ。
政経塾では、幕末の志士らのことも学ぶので、京都という場も気分を高揚させてくれる。
文久3年、知恩院に、薩摩藩が本陣を置き、薩摩藩主・島津忠義や、尾張藩主・徳川慶勝の旅宿とななった。 慶応4年2月30日には、御所に赴く途中、縄手通で行列を襲撃され、助かった英国公使パークスも知恩院に宿泊していた。
※パークス襲撃事件とは
慶応4年2月30日(1868年3月23日)、イギリス公使パークス一行は明治天皇に謁見するため宿舎の知恩院を出て御所に向かう途上、2人の男に襲撃された。すぐさま護衛の中井弘蔵と後藤象二郎が反撃し、犯人の一人朱雀操を斬殺した。もう一人の犯人である三枝蓊も他の警護兵に重傷を負わされ、逃走しようとした所を捕縛され、襲撃は失敗に終わった。三枝は同年3月4日に斬首された。
京都は賑わいを取り戻していた。京都駅から知恩院へ向かうタクシーの中、運転手さんとコロナにおける観光業の大打撃と、最近の観光客の戻りについて話す。
祇園の賑わいを横目で見ながら「本当に大変な3年間でした・・・・」と運転手さんの安堵の声に耳を傾けた。
タクシーを降り、知恩院の国宝の三門や御影堂を静かに眺めた。
自然に手を合わし、一礼。南無阿弥陀。心の中で、念仏を唱える。
法然上人と親鸞上人の関係にも思いを馳せる。
この寺で島津勢は、何を思い、あの動乱期に向かったのか・・・。
そして、如月例会が始まった。
宿題を全員の前で発表。徹底的に自分に向き合う。
自分が思い描いたように上手くはいかなかったが、上手くいくという考え自体が無用であろうことは、初めからわかっていた。どのような結果であれ、自分の今までとこれからに対峙することが重要な例会である。
また、奇跡的に友となった同期生を知る例会でもあった。
共に生き、頑張ろう!
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