1月に入塾した政経塾の宿題のために、自分の原点と向き合う日々。
1978年11月16日、その日が、私の運命の日であった。
歌が好きで、何気なく視ていた、ザ・ベストテン。テレビの出演拒否をしていた松山千春が1回限りの出演をした。
8分ものトーク、季節の中での弾き語り。
なぜ、自分がテレビに出ないのか、真っ直ぐに語った。
かっこいい、22歳の男の生き様。私は、小学6年生だった。
10年後にあんなかっこいい、大人になれるのか?
衝撃であった。
松山千春の歌を聞き、自伝を読み、ラジオを聴く日々。
ギターを買ってもらい、徹夜で並んでチケットをととり、コンサートへも行った。
学校にばれ、呼び出しもくらうが、先生らは知っていて、どうやら、ついてきていた。
良い時代だった。あの時代に感謝したい。
千春が影響を受けたという岡林信康から関西フォークを聴く。バリバリのプロテストソングだ。最初は何を歌っているか全くわからないから、本屋や図書館へ行き、風俗辞典や百科事典などで調べる。今のようにネットなどない。情報源は自分で探すしかない。
ただ、テレビもラジオも今より多様で深い番組を編成していたように思う。
時々、関係する歌の特集などが放送され、カセットテープに録音した。
学生運動、安保闘争、部落問題、貧困問題・・・・。
1960年から1970年をかけておこった社会の動きと、その時代の歌を照らし合わせた。
ベトナム戦争に反対するジョン・レノンの存在も、その時に知った。
全てが衝撃的だった。自分と社会について考えた。
中島みゆき、吉田拓郎・・・。井上揚水の傘がないを聴いた時には立ち上がれなかった。
なんだこの世界は・・・。
全て、自分で調べ、そして、僕も15歳から曲を作るようになり、単独ライブも行った。
当時は、フォークシンガーになりたかった。まっすぐ、恥ずかしげもなく、音楽に向かった。
結局、三つ子の魂百まで。
笑われようが、私は、当時のまま。いや、当時を原点にして、系統樹的に今がある。
子どもの頃に何に出会うかで、あらかた決まる場合がある。
だから、私は、子どもの環境や体験を重んじているのだろう。
私にとって、今でも音楽は、私にたくさんのものをくれ、生きる希望の一つにもなっている。
最初に選挙に出た時、背中を押してくれたのは、千春の以下のライブ曲だった。
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