いなべ市の限界集落を訪ねる


まず最初に『限界集落』とタイトルをつけたことに関してであるが、この集落は、先人が苦難の末に切り開いた地であり、桑名藩よりその功績をたたえられたほどの新田であった。その先人の苦労を讃える反面、その新田集落が、多分人知れず、いずれなくなるかもしれないという状況を伝えたくて付けたタイトルであることを、記しておきたい。

その集落は、いなべ市北勢町『千司久連新田(せんじぐれしんでん)』である。

先日、中世城館である田辺城の周辺の遺跡発掘報告会があったが、そこで、FB友達の林さんと初めてお会いできた。その時に、林さんが在住している千司久連新田の物語をお聞きした。

千司久連新田は、田辺城を北へ上がった山間の集落。川原の東に当たる。多分、いなべ市の人もあまり知らない集落だと思う。 林さんは、数えて10代目。先祖は、林杢兵衛(代々この名を襲名するのだが)。

杢兵衛は、元文四年(1739)、桑名藩に願い出て、許可をとり、当地の新田開発を行った。 林さんの話では、水に乏しい当地の水路の敷設が一番の難題で、あらゆる難工事を克服し、水を引き入れたと伝わっているという。古文書には『赤富士のごとく、大金がかかった』と記されているそうだ。 北勢町史によると、当時から獣害の被害がひどく、耕地の四方に小堤を築き柵を張り巡らしたとある。その柵の延長は1900mにもおよんだと記されている。 川原を回った時に、ある家で 『千司久連新田は全部、田畑を囲んだので羨ましい』との声を聞いたが、林さんに聞いてみると林さんが勝手にやったと言う。はやり、時を隔てても、ご先祖のイズムは生きているのだろう。 この広大な美田は確かに全部、柵で覆われていた。

さて、かつては、方々から開墾時に入った家の子孫、11戸があった千司久連新田も、現在は4戸となり、市の自治会長会も抜けられたと言う。(いろんな経緯があったらしいが、あえてここでは書かない)。 千司久連新田の東に広大に広がる美田。今では営農組合が管理して頂いているそうだが、実に美しい田である。

この美田の開墾という一大事業をなしとげた功績により、桑名藩主から「千司久連新田」と命名され、杢兵衛は名字帯刀を許され、千司久連新田の地主、庄屋に任命されたのである。

「私は離れる気持ちは全くありませんが、近い将来、この集落はなくなっていくでしょう」。

林さんのこの言葉に、千司久連新田をいちライターとして取材し続けたいと考えた。その過程で見えるものが、多分、たくさんあると。

こうした出会いがあることもあり、やはり、この機会に一戸一戸、歩いて見ようと新たな気持ちとなれた。しっかり、地域、地域を観ないといけない。


林さん、貴重なお話をお聞かせ頂き、ありがとうございました。

いなべ市議会議員 篠原史紀 しのはらふみのり WEB

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